昭和41年11月3日 朝の御理解
この違っておる様に見えたり、人事でもそのままこれが金光様の信心だという風に頂きますから、案外ついていきやすいのです。これはあれが本当だ、とまあこれは極端な例ですけれども御結界が左にある。椛目の合楽の皆さんがほかの教会に参りましてから、「先生あそこの教会は御結界が右にありましたよ」と言うてから左にあるのが本当かと思っておられます。ね、ですからそういう時は案外御道の信心とは、こういう様なものだと分かっておりますけれども、んならそれで深い私の生き方を分かっておるとは、言えんのです。ですからこういうところを一つ皆さん本気でやはり私の信心に言わば飛び込んできて下さると言うか、(きゅうきゅう)深くても良いから、そこんところを頂いて下さらんと私の頂いている信心は分からんと思うのです。特に私の信心の中にこれは私の絶対なものにしておる事は人情を使わないことです。ね、もう本当に心行一つでえす。もう神様の教えてくださることならばです、もう私は誰が何と言うて笑うてもそれを行じるからです。ね。いわゆるそれをやってのけるからです。だから場合によっては非常に冷淡に見える時があるかもしれません。それこそ金光様の信心を一通り知っているならば「あらこれは金光様の信心の御流儀じゃないな」と思うような方があるかもしれません。
そういう例は椛目でもうしますといくらもあると思うんです。またあらゆると言うか、いろんな場合場面にですね、直面した時にこれからの生き方だなーと言う風に全然違った生き方をする事があるんです。ね。ですからそれはね、本当にそのまあ言うならば私がねそれでこう違ってはおらんかという面でも私がおかげさえ頂いておるならばまず、皆さんが「はあ、深い御神慮のことだなあー」と思わなければいけんです。
私がおかげをつい落としてしまっておるとするなら、やっぱり生き方が間違っておったとか、ああだったからとこう思われて仕方がありません。ね。ですからあのそこんところを見て下さらなければなりませんね。
まあそういう例をお話しますときりがないですからここで一つ、もうこれは三井教会にご縁を頂いておる私共がやはりその先代が足に苦労の中に道を開かれた。そして、こういう信心をモットーとして、日常生活の上にも行きぬかれたというのが皆さんもご承知のとおり。「凝りをつますな凝りをつむな身を慎め」という御教えでございます。ね。ですから神徳を積ませることはいりませんけれども、中々懲りをつませないという事は、ね、それはね、皆さんご存知ないですけれどもね、本当に実に円満な先生でございましたですね。先代は。今の先生も円満ですけれどももっとその深みのある先生でしたですね。ですから本当にあの凝りをまあつませなさらんことに一生懸命御努力になったとこう思うのですね。
ところがですね、それがどういうその人のために言うたり、思うたりしておる事をその人に申しましてもですね、相手が凝りをつむなら仕方がない。そうでしょう。だから凝りをるませんという事はこれは難しい。言うなら、これはお釈迦様でもできなさらんじゃなかろうかと思うですね。仏様の事でも悪口を言う人がありますから金光教と仏様のそれに抵抗したり懲りをつんだりした人は沢山おります。そういう意味合いでその先代なんかは随分教団の中でも懲りをつませられた頭だと思うのですね。
ところがdす、ところが私がその、皆さんが本気で私の信心を頂いて下さろうとする願いがなからなければならん。またそういう意欲がなからなければと。言うことはですね、え、こう言うたならばこうしたならば懲りをつむだろうと思う様なことでもですたい、ね、こうしなえければ兎に角、おかげを受けられないというときには私はそれを平気でやって抜けているからです。いや、むしろ横におるものが凝りを積むようなことがあります。
ね。ですから本当に私の心というものを知って頂かなければですまあ、極端な例ですけれども。いつか私が申しましたです、ね、確か、四、五人の丁度お客さんがあってました。
久保山さん、書道の久保山先生、書道の先生です。それに高橋さん、秋永先生のところの家内です。それに私がお神酒を出すのにね、お神酒の人もあれは洋酒の人もある。焼酎の人もありゃ白酒の節句の時に使います、白酒の人もあると言うようにして私が出したことがあるんです。ね。それでいて私の雰囲気というものは一つもおれには焼酎どん飲ませてから、あの人には最高のウイスキーを飲ませながらと言うような雰囲気は全然なかったんですけれどももし、これをこの話を聞いたり側でみておったりしたら、あー先生ちゃどうしたエコひいきのある人じゃろうかと言う風に思って、コリを積むことだろうと思うのです。けれども、私はね、それかと言うて私は私も心の中にある情と言うものはどの人に対してでも実を言うたら一様なんです。ね。これは皆に良いウイスキーを飲ませてやろうとか皆に一級酒だけを飲ませていかんね。一級酒を飲ませる、目の前で一級酒を飲ませる人もありゃ、二級酒を飲ませる人もある。ね、まあですから私はもうその人その人に私はその人その人の程度に応じてその人の信心の打ち入りの状態に応じて私はこの教導をするというとおかしいですけれど、そういうような生き方をするんです。私はですから、そこにおられた5,6人の人たちが私を本当に知っておられるからなんでもない。いや、むしろそこに何とも言えん良い雰囲気が生まれてくるのです。にぎやかな。ね。そういう様な事を例を言うなら本当に沢山あるのです。ね。椛目では。ね。私はね、どういう事をここに一つの信条として来たかと言うと、ん、神様から教えてもらった、と、神様の事ならばです、例え人間が悪口を言おうが笑おうがです、いわゆる、神様の仰せだけは背かれんと言うのが私の生き方なんです。これは私の信条です。ね。それには例えば家内であろうが、親であろうが、子供であろうがです、確かにそれはやってのけてきたんです。ね。そして、んなら家からも親からも大体子供達なら子供達からもです、ね、んなら信用されて段段来たと自分で思うのですよ。ね。それは誰や例え親が言うても私はいや、神様の仰せには背かれないという生き方なんです。これは善導寺との関係なんかあります。けれども、それがはっきりしております。ね、もう私がこげな風にでりゃですね私があそこで大事に扱われる事も、または誉められることも良う言われることも、よう分かっておることを私はしない。それは私が旋毛曲げているのではないのです。神様の仰せに背かれんという生き方ですから、それなんです。ね。必ず、それが本当のことが分かってくることがある。そのときに私も助かれば、親も助かる。私ともが助かれば皆も助かる。ですからそうい時にです、言わば皆さんが懲りをつまんですむ信心を頂いておられたらおかげだと。「凝りをつますな、凝りをつむな、身を慎め」とこりをつますと言うことは本当にこれは難しいことでございますけれども、えー、懲りをつむなという信心は私は本気にお互いがその気になれば出来んことはないと思います。ね。誰が何と言おうと、こりをつまにゃ良いでしょう。大きな豊かな心で頂きゃよいでしょう。ありがたい心で合掌して受けて行ったら良いでしょう。ね。それはもう本当に本当にこの人ばっかりはこりを積ませる人じゃるなーといったような人があります。凝りをつませる。ところがこっちが信心でさえ行きゃーこりをつむこといらんです。ね。ですからあのまずですね、どのような場合でも自分がこりをうまんと言う信心をさせて頂いたらです、必ず神様のご信用がつくです。ね。これはいつも私が言うです。どのような場合でもそれを言わば合掌してありがたく受けて行こうとこう言うのです。
これがこりをつまないという事なのです。そうですね、ならここんところを徹し抜かせて頂くなら必ず神様のご信用がつくです。お徳が頂けれるんです。ね。お徳が頂けて参りますと神のご信用がついて参りますとですね、神様が今までこりをつんでおった人でもはあ、自分はこりをつんでおったのが間違っておったと言う事を分からせて下さる、必ず時期がくるのです。ですからこりをつませる事ならそれは、神様の仰せであり、いや、こうすることが本当に信心だというなら義理とは人情とかそんなものはもう問題じゃありません。もうそれこそ、心行一つで生き抜きゃ良いです。ね、そこんところにです、はあ、義理があるから人情があるからと人間心を使って言い寄りますといつまでたっても、いつまでたっても言わば自分達が苦しまねばなりません。いや、それでは神様のご信用はつきませんね。ですから、まず、こりをつむなと仰る、どの様な場合でもどの様な事柄でもこりをつまんと言う、その信心をしなきゃーいけない。ね、総氏子も御教えも本当に素晴らしい御教えだと私は思うですね。こりをつますな、凝りをつむなとこう仰る。凝りをつますと言うことは場合によっては仕方がないことがある。いや凝りはこんなことでつませたためにと言うたこつやらしたことるやらとても、こんな事で凝りをつませたとは思わないと言った様な事で案外こりをつませている様な事があるんです。むしろ喜んでもらわなければ喜んでもろう様なことですね。例えばこれは私と久保山先生とある一つの会談の時でした。ある修行生のことを思っている事を一生懸命で私が思うておる事をいつも言いよる事を久保山先生がそれを知っちゃるわけです。それで久保山先生が家の親先生はこう思ってあります。あなたのことをとこういわしゃった。そしたらそのことを聞いてから途端に寝付きなさった。と言う方があります。しかももう何日からなんです。寝付いたのが。ほんなこつ。言うならもうそれこそほんなこて、久保山先生にこげんあなたが言うたならば、ほうそげな事が出来とるですか、と言うて喜びの涙を流さっしゃったっちゃ良かごたる言わばありがたかこつを言うとるけれどもです、それを聞いたとたんにですねコローとしてから何日間か寝つきなさったと言うのです。ですからもう仕方がないでしょうが、コリをつむ、ね、むしろ喜んでもらえると思うような事がかえって何日間でん相手に言わば寝付かせるごとひどい言葉になっとおったんですかね。相手にとっては。ね、ですからコリをつませぬと言う事はそんなに難しいことなんです。
コリをつませないと言うことは、けども自分自身がコリをつまんというようなことが聞こえたならばどんなことがあっても言わばありがたいもので言わば、コリをすて、ありがたいもので溶かしていくという、信心をさせて頂けばです、必ず御神愛が神様の御神愛がつく。神様の御神徳が頂けれる。御神徳を頂いてまいりますとです、いわゆる今まで、コリをつませておったけれども、成る程と合点が行く様になってくる。ね、どうでしょうか、皆さん、みやすい方のこりをつますなと仰る。みやすい方のコリをつむなと仰る。そのことですら皆さんコリをつんでいることないですか。ね。自分の付き合いの人たちのためにコリをつませられている様な事がないですか。
自分の有難さ不足がコリをつむのです。ね。だから、もう、コリをつますなと言うことは難しいけれども、一つ凝りをつまんぞと言う事だけはです、ね、コリをつむなと言うことだけは一つ凝りをつんじゃならん。これは一つ一点ばりで行かなきゃいけなせん。ね。そこんところがです、本気で私の信心を頂いて下さろうとする願いを持って皆さんが私の信心に飛び込んできてくださるならばですね、そこんところが分かると思うです。どんなに私がある意味では理不尽な事だから、私がいつも超道徳とかね超道理とかいう手を使います。ね。そういう事を皆が分かるはずがないです。私の心をわかるはずがないです。ね。それが道徳的な生き方にすりゃー誰でも合点がいく。十人が十人合点が行くのですけれどもその上に超がついているのです。だから、見方によっては、非道徳のように見えますもん。ね。合理的に行きゃ誰でも合点がいくのですけれども私の場合は超合理的な超を使わなければならない様な時がありますから、それはどうも合理的じゃないじゃないですか。とハラハラした様な事があるんです。私の信心の中にはけれども、それが非合理的なものではなく非道徳的なものではなくてです、超合理的であり、超道徳的なのですから、神様にはね神様にだけはどんどん通うていくのです。ですから、超をつけなければならん様な超のおかげが生まれてくるのです。夢にも思わなかった様なおかげに進展して来るのです。
ね、ですからそういう超を使わなければならないような時はです、もう、コリをつむならつんでも仕方がないでしょうが。けれども、ここに信心の稽古に通うて見える皆さんだけはです、せいぜいコリをつむ様な事があってはならんと言う事なんです。
先生のなさることはどこまでの深さか言うならばあるやら分からんのだから、私どんには分からんのだけれども、ね、神様の言わば仰せのままに動きよんなさるとじゃろうという風に思い込んでもらわなければです、お取り次ぎもしにくり。おかげも渡しにくい。取り次ぎにくい。それでは今日は、そういう言わば二つのことを申しましたですね。
私の信心を頂いて下さる。これは、頂けれるけれども、これは頂けないと言ったような事があるということ。けれども、これでは私の信心の本当なものは頂かれないという事。
それをそれを頂かなければ本当の私の信心には及ばないと言うこと。ね。同時にコリをつますな、コリをつむなと教えて下さる。その御教えのです、ね、まあ、場合によってコリをつませるなら仕方ないけれども、わざともうこげんいやーありがもやもやする、こげんいやーありが、腹かくと言うようなことをもう、相手の心を傷つけるためにコリをつませる、こげなこつはもう、大変おかげ落としますよ。自他共に。そんなんがあるです。
ほんに、そげんことが誰でんあることはありますもんね。ほんに何かありが、一遍ぎゃふんと言うごたるこつがなかじゃろうかと思うてもう、触らないのが誰が腹立つ時なんか一言でちくっと決まるごたる、もう、そういう言葉を心の中に一生懸命捜す様な時があうでしょう。けれども、あれは、その時は片方がぎゃふんと言うておりますから、こっちは後ろから悲しい思いをせなならんとです。
ね、こういう様なのは全然いけませんよ。それでも、この人の為にと思うて言いよることでも、相手が寝付くようなそういう様な事があってはです、これは本当ですよ。そういう事があったのですから、それを私は後ろから聞いてからびっくりしたんですから。もうそれからもう、本当に私はその場だけは私が無口になる様になりました。
ね、ですから、私がコリをつますなという事。ね、これはもう本当に至難中の至難だと。私は思うのです。ね、良いことだと思ったことがコリをつんだということだから、仕方がないでしょう。けれども、コリをつますなという事はそうではないと言う事。いやいやこりをつむなと言うことはどういうことを例えば聞いても見てもですたい、もう、ぞっこんそれを信心でとかしてしまう。喜びで受けていく。元気な心で合掌して受けていくとね、こういう風な生き方で受けていきゃーです、必ず神様のご信用がついてくる。
ということ。これには人情もなからにゃー義理もない。というかね、心行一筋で行かなければいけない。ね。ただそのあかつきに必ずです、今までのことによってコリをつんでおった人でも合点してくる様なおかげを頂けれる。
その今日は二つのことを申した訳ですね。ね。ですからどうぞ、一つもう、これではおかげが頂かれない。まず、そこんところの稽古を本気で頂かなければなりません。
どうぞ